提箸宏詩集 30/60

チェロ

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指の位置が
さだまらない
「レ」の音が出ない
出ない音を探し
指をずらす
ひとさし指
開放されない弦
いつからか君は泣き顔に変わり
そして、いつからか
チェロを抱え音を探しながら
眠っている

はじめに
四本の弦を
一本ずつボーイング
「ド」と「ソ」と「レ」と「ラ」と
指で押さえることもなく
ありのままの
解き放たれた音
音は耳で探し
指で覚える
ありのままであることを拒むように
母の叱咤は続き
チューンアップ
そこから始めなくてはならない
君のレッスン

三本目のチェロが
やってきた
新たな弾き手としての君の前にやってきたのは
四分の一というサイズのチェロ
指の位置の塗料が少しだけ剥げ
音が厚ぐなって
ソナタを弾く姿勢も大人っぼくみえるようになった

一本目はSさんにいただいた
十分の一
五才になったら始めさせたいとの周りの思いと
「チェロをやりたい」と
口走ってしまったそのひとことと
まもなく
バイオリンをちょっとだけ大きくしたチェロが
君の毎日の泣き友達になった

二本目は十五万円で買った八分の一
君の背丈についていけず
一年ももたなかったチェロは
部屋の片隅で
成長を見守っている

五才、六才、七才
カブトムシにへばりついたカマキリのように
君はチェロと戦ってきたのか
杖のように
三本のチェロに支えられてきたのか
十分の一、八分の一、四分の一と――—

いまでも繰り返し
泣くことを続けている
君よ

君がチェロを弾いている間に
ぼくは階下で掃除機をかける
チェロの音とともに
ときおり母親の叱る声が
騒がしさの合間に聞こえてくる

君のおばあちゃんは
居間で新聞を読んでいる
老眼鏡の奥から天丼の方を上目遣いで見やりながら

ぼくは台所で皿を洗う
チェロの音とともに
泣き声が聞こえてくると
壁に掛けられた時計の針が気になり始める

終わりのないチェロに
おばあちゃんは
そそくさと出掛け支度を始める
痛み始めた胃を紛らすために散歩に出ようとする
苛立ちながら
階段を上っていくこともある

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